こらむらんど お題「舟」(2005年)

霧の向こうに浮かぶ舟

 寒い日、霧の向こうに、小さな舟が浮かんで見える。カササギ沼には、そういう伝説がある。染井の森の奥深くにある沼だ。ぼぉっと、白んだ靄の向こう側に、不思議な世界が広がっている。そんな錯覚をして、はたと我に返る。そういう場所なのだ。
「大滝先生、待って下さいよー」
 ほうほうの体で追いかける。子供の頃は、そんなに遠く思わなかったのに、今の櫻井には、ひどく長く感じる。歳を取ったのかも知れない。大滝先生は、まるで何でもないかのように、深く、深く、森の中へと分け入って行く。もう二十メートルぐらい離れてしまった。
「櫻井くん、早く、早く」
 大滝先生が樹木の向こう側で大きく手を振った。
 大滝先生は民俗学者である。平素から何を考えているのか分からないけれど、近所の森に、不思議な伝説があるというのをどこからか聞きつけて、居ても立ってもいられなくなったようだ。櫻井は、そんな大滝先生のアシスタントである。
「先生、早いー」
「フィールドワークは民俗学の基本だよ。櫻井くんも、ほら。頑張れ、頑張れ」
 大滝の声援を受けて、頑張る櫻井である。
「今日は陽射しが強いですから、出ないんじゃないですかね、カササギ沼の小舟」
「出ないかも知れない。でも、出るかも知れない。どちらにしても、見に行かなければ分からんよ」
 大滝先生は笑う。
「これを、不確定性理論というんだ」
「先生、適当なことを言わないで」
 沼が、どうしてカササギ沼という名前になったのか。それはよく分かっていない。名前の由来を追いかけるというのも、研究としては面白いのではないか。櫻井はそう思った。案外、カササギにまつわる面白いエピソードでも見つかるかも知れない。
「そうだねぇ。そうしたら、一石二鳥だねぇ」
 子供の頃は、よくこの森に入り込んで叱られたものだ。真ん中辺りに祠があって、そこには土地神が祭られている。森の守り神らしいが、お祭りの類いは何1つ残っていない。でも、昔は何らかの信仰があったのだろう。今でも、森の木を不用意に切ったりすると、森の神が怒るなどと町の古株たちは言っている。
「着いた、カササギ池だ!」
 二人は沼の縁に立った。少し、霧はかかっているけれど、対岸がはっきりと見える。沼の色が緑に見えたり、茶色に見えたり、青く見えたりする。
「不思議なもんだねぇ」
 大滝先生が言った。
「ほら、光の関係で、沼がキラキラと光っている。きれいだ」
 何にでも感動出来る先生だ。しかし、静謐の中、沼は確かにきれいだった。櫻井も、立ち止まって、そして、なんだか落ち着いた気分になる。陽光がゆっくりと、しかし絶えず変化していて、それに合わせて水面の色も変わる。時間の流れが、まるで違うみたいだった。
「カメラ。櫻井くん、カメラを出して」
「あ。はい」
 櫻井はリュックサックの中をごそごそと探る。どうやら、一番、奥に埋まってしまっている。
「駄目だねぇ。シャッタ・チャンスは一瞬だ。カメラはすぐに使えるようにしておかないと」
「すみません、すみません」
「ほら。だんだん、霧が出て来た」
 大滝先生が指を差した。櫻井は顔を上げた。ゆるゆると、辺りが霞がかって来て、やがて、対岸が見えなくなる。すぐ近くにいるはずの大滝先生が、遠くにいるような錯覚。
「ほら。カメラ」
 声まで、遠く感じる。
「あ!」
 大滝が小さく声を上げる。
「見て、櫻井くん。あそこ。舟が……」
「どこです? 先生、どこですか?」
 目を凝らす。もやもやと白い霞があるだけだ。
「あそこだ、櫻井くん」
 白い霧の中から、大滝先生の手が伸びて来て、櫻井の肩越しを掴んだ。
「あ!」
 櫻井は声を上げた。
 ふ、と霧が晴れた。大きな鳥が、まるで霧を裂くように、沼の真ん中に墜落して、そして水面すれすれで、また飛び立って、木立の中に消えた。あっという間の出来事だった。水面が、うねうねと波打った。
「魚を捕ったんだろうか」
 大滝先生が言った。
「まさか。閉鎖水域の魚なんか食べる鳥はいませんよ」
 ギャアギャアと、森の高いところで、色々な鳥の鳴き声がして、それから、葉がバラバラと水面に落ちて、浮かんだ。それからしばらくして、また静寂が訪れた。辺りは、再び色彩を取り戻す。
「先生、何だか不思議な世界に迷い込んだような気分です」
 櫻井が言った。
「見たかい?」
 櫻井は首を振った。
「それは残念だったね」
 大滝先生は、そう言うと、岸辺まで近付くと、水を蹴った。水面に、丸い波紋がいつくもいくつも出来た。
「あ、もしかして」
 櫻井はカササギ池を指差した。
「ほら、先生。あそこ。枯葉が浮かんでいる。もしかしたらあれが……」
「あるいは、そうかも知れないね。でも、そうじゃないかも知れない」
 どこかで、小さく鳥の羽ばたく音がした。
「でも、私は見たよ。小さな男の影が、舟を漕いでいたんだ」
 水面に目を戻す。カササギ沼の色が、またゆっくりと変わっていく。