アバウトな創作工房

文章表現論 お題「芸術」(2005年)

死神のヴァイオリン

 芸術祭も間近に迫った霜月。僕たちは天才ヴァイオリニストの美作秀平の屋敷に招かれていた。贅沢な装飾を凝らした外装で、派手好きの彼には似合いの屋敷であった。彼はひどく気難しがり屋で、練習中に邪魔が入るのをひどく嫌う。それが原因で楽団を追われた若手奏者もいるなどと、実しやかに囁かれているぐらいだ。庭先には別邸があり、部屋全体が防音室になっていて、美作秀平はいつもその部屋にこもって練習をする。実はこの防音室には集音マイクが二つ付いていた。一つは彼の演奏を録音するためのものだ。そして、残りの一つはそのままこの屋敷に繋がっていて、各部屋の天井のスピーカから、絶えず、彼の練習音が流れている。ここが、彼が酔狂と言われる所以なのかもしれない。彼は、たとえ食事の時間になろうとも、睡眠の時間になろうとも、決して、邪魔されることを望まなかった。それゆえに、家中のスピーカから、彼の演奏が流されるのである。彼が防音室で演奏をしているのか、していないのかを、常に家人に知らせるために!
 しかし、これはこれで、それなりに功を奏していたのである。練習とは言え、彼の音楽は素晴らしかったから、妻の紀美代も楽しんでいる風だった。客人は彼が練習している間、どこにいても、彼の音楽を楽しむことができた。もちろん、静けさを望むときでも、スピーカはちっとも遠慮してくれないのだけれど。
 僕たちが今回、彼の屋敷に招かれたときも、彼はちょうど防音室にこもっていて、出迎えは紀美代だけであった。
「ごめんなさいね。あの人、また練習に精を出していて」
 紀美代はそう言って詫びた。屋敷中に、彼の奏でるサン=サーンスの「死の舞踏」が鳴り響いていた。真夜中、死神の奏でるヴァイオリンの音を合図に、骸骨たちがカタカタと踊り出す。そんな交響詩である。変則調弦で、わざとE線を半音下げて調弦する。調弦の狂った感じがまさに死神のヴァイオリンだ。
「何て曲でしたっけ?」
 客人の一人である音楽ジャーナリストの本田という男が聞いた。彼は室内楽が専門だから、知らなかったのだろう。ヴィオラ奏者の美香が、嬉々として彼に講釈を打っていて、僕はいささか辟易した。

 次の日の朝、美作秀平のヴァイオリンの音で目が覚めた。まだ5時である。明日の芸術祭で演奏する曲のようだった。気に入らない箇所でもあるのか、彼はさっきから、しきりに同じところを繰り返していた。それが、ひどくまだるっこしい。さすがに頭がどうにかなりそうだ。しばらく目を閉じていたが、ついに音をあげる。どうやら他の部屋の連中もそうであったらしい。ごそごそと起き出す気配が伝わってきた。僕は布団から抜け出すと、冷たい床にそっと足を這わせた。どうせ眠れないのだ。起きて何かした方がいい。そして、考えることは皆、一緒なのである。時をほぼ同じくして、皆、大広間に集合したのであった。
「今流れているのは、バルトークのヴァイオリンソナタ1番でしたかな?」
 本田が聞いて、
「残念でした。これは2番です」
 美香が答える。紀美代は黙々と朝食の準備。そして家主は防音室だ。僕は、彼のテクニックを盗もうと画策する。と、ぶつり。突然、引きちぎられるように演奏が途絶えた。静寂。そして、朝食のスープが冷める頃になっても、スピーカは沈黙を守り続けていた。僕はザワザワした心で、演奏が始まるのを待っていた。
 けれども、美作秀平は死んでいた。防音室の真ん中で、天才ヴァイオリニストは、胸に深々とナイフを突き立てられて死んでいた。一体誰が。どうして。そんなことを思うよりも先に、僕は彼の横に転がっているヴァイオリンを拾いあげていた。ひどい思いつきだ。けれど、確認しなければ……。妙に冷めた自分が、遠くから自分を眺めているような感覚に囚われる。弓を巻く。それから、ゆっくりと弦をなでた。バルトークのヴァイオリンソナタ2番。しかし、すぐに調子っ外れの音にぶち当たる。僕は息を飲んだ。美香を見る。本田を見る。紀美代を見る。誰かが殺したというのか。ひどい悪夢だと思った。なぜなら、E弦はちょうど半音下がって調弦されたままだったのだ。

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