アバウトな創作工房

こらむらんど お題「しせん」(2006年)

怪物の瞳

 カトブレパスの眼を見たものは立ちどころに死んでしまう。だから、誰もその怪物の瞳を直視したヤツはいない。水牛のような無骨な身体に、ブタのようなちっぽけな頭、首は……まるで腸のようにうねうねと細くって長い。アンバランスなフォルム。必然的に怪物の頭は地面をごろごろと転がりまわるのだ。でも、そのお陰で俺たちは生き延びていられる。もし、怪物が普通の首をしていて、颯爽と頭を持ち上げて、それで、そうだな、まるでハンサムな男優みたいに、あっちにもこっちにもサービス満点の流し目を振りまけるようなヤツだったら、きっと、この世界はとっくのとうに滅亡しているのだ。みんな、立ちどころに死んでしまうのだから。だけど、怪物の首はだらしなく地面を這うばかりで、だから、ラッキィなことに俺たちはこうして生き伸びている。
 ある意味できそこないのこの怪物が、まさに今、俺の眼の前にいる。渋谷のセンター街から3つも外れた閑散としたストリート。不似合いなことに、その通りのど真ん中を、怪物がごろりと占拠していた。困ったことである。でも、怪物はまだ眼を閉じている。眠っているのかもしれない。引き返そうか。いや、そのまま通り過ぎよう。俺はそう思って歩き出した。そぉっと歩く。突然、ゴォーッ、と怪物が息を吸い込んで、吐き出した。俺はびっくりする。でもそれだけだった。気づいていない。良かった。またそろり、そろり、と俺は歩く。迂回して、道の端っこを通り過ぎる。そして、そのまま通り過ぎようかというその瞬間……
「誰も俺の眼を凝視したヤツはいない。みんな死んじまうのさ」
 怪物が声を出した。俺は振り返る。怪物は頭をぐるり、と回した。よかった。まだ眼は閉ざされたままだ。
「俺の瞳を見てみたいとは思わないか」
 怪物の口から、言葉が漏れた。それを聞いて、俺は動けなくなる。見てみたいとは思わないかだって。そんなことをしたら死んでしまうではないか。でも、果たしてどんな瞳をしているのだろうか。今まで想像したこともなかった。カトブレパスの瞳。ルビーのように赤いんだろうか。あるいはどこまでも暗い青なのか。意外と闇のように深い漆黒かもしれない。いや、駄目だ。考えるな。考えてはいけない。俺は眼を閉じた。
「絶対に見るもんか。見ないぞ」
 怪物が笑っている気配が伝わってきた。ゴォーッ、とまた怪物が息を吸い込んで、それから吐き出した。
「さあ、俺はたった今、眼をひらいた。後はお前が眼をひらけばいいんだ」
 怪物の声。赤い眼か。それとも……。ああ、駄目だ。眼をひらいたら、俺は死んでしまうのだぞ。駄目だ、駄目だ。眼をひらいてはいけない。駄目だ。でも、それでも……俺はゆっくりと眼をひらいていた。

(ギュスターヴ・フローベールへのオマージュとして)

■□■アトガキ
ギュスターヴ・フローベールの『聖アントワーヌの誘惑(La Tentation de Saint Antoine)』という作品がある。いろんな怪物が登場してアントワーヌを誘惑する。カトブレパスも登場して、アントワーヌを誘惑していた。そのワンシーンをモティーフにして膨らませて書いてみた作品。渋谷という街に舞台を持ってきたのがスリリングで面白いかなー。

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