レッド・ギターの記憶

 ひどく寒くて、妙に透き通った夜空だった。幾億もの星がちかちかと光を返す。けれど、あの星の光は何万年も、何億年も前の光だ。不思議だと思う。でも、そもそも人間の知覚しているものの全ては、程度の差こそあれ、みんな同じだ。反射した光を、眼が捉え、そして神経回路を経て、やがて脳に到達する。そのプロセスが、一瞬なのか、あるいは何億年なのか。違いはそれだけのこと。結局はタイムラグを抱えている。それなのに、どうして何億年も前の星の瞬きが不思議だと言えるだろう。それでも、壮大だと思うことが人間の偉大さだ。人間は元来、ロマンチストなのだろうと思う。
 目の前に、ちかちかと赤いライトが点滅しているのが見えた。あの赤い光は、今、どのくらいのタイムラグで僕の脳に到達しただろうか。息を吐き出す。白い塊が、まとわりつくように現れて、それから空へと拡散していく。
「遅いな。やっと到着?」
 そう言って、壁の隅で、杉本春奈が片手をあげた。僕も片手をあげる。
「今日はずいぶんと冷えるね」
 僕は言う。でも、意味のない台詞だ。今日は例年通りの寒さなのである。けれど、どうしてだろう。毎年、毎年、今年は去年よりも寒い。そう認識する自分がいる。喉もと過ぎれば、というやつで、寒かった過去なんか忘れてしまえるのだろうか。だとしたら、便利なシステムである。もしかしたら、自分の許容値が、年々、退化していくのだろうか。そして、いつか、凍え死んでしまう。そうやって人間は死んでしまうのかもしれない。あるいは、温度計の基準値を、年々下げるルールを作っている人がいるのかもしれない。それはどんな人間だろう。そんな想像をして、少し可笑しくなる。
「ガイシャは? 死んでいるのか?」
 僕は訊く。
「自分の目でご覧になったら? ヘタな先入観はない方がいいと思うけど」
 的確なコメントである。僕は小さく頷くと、ロープをくぐって部屋に入った。真っ先に、ギターが見えた。赤いギターだ。それから、床一面に散らばった手書きの譜面。まるで若い頃の僕の部屋のようだな、と思う。ギター一本で、僕は神さまになれるんじゃないかと錯覚をした。
 バスルームの方から、嫌な匂いが漂ってきて、鼻をつく。それだけで、もう大体の想像はつく。杉本に続いてバスルームを覗く。真っ赤に染まったバスタブ。死んでいたのはピンクの髪の……
「女……なのか」
 思わず呟く。露わになった白い乳房から、慌てて目を反らす。過去の自分と被害者を重ね合わせていて、てっきり男だと思い込んでいた。
「この辺じゃ、ちょっとしたバンドのヴォーカルだったそうよ。なかなか可愛い子じゃなくて?」
 杉本の声がバスルームに反響した。
「悪い冗談は止せ」
 杉本はちょっと笑った。
「君も、昔は歌がうまかったよね」
「だから、悪い冗談は止せって」
 僕はもう一度、言う。
 だらだらと神さまごっこを続けるつもりなら、もう止めた方がいい。そう僕に進言したのは杉本だった。そう言われて、まったくその通りだな、と思った。だから、僕は歌うのを止めた。意思決定なんて、意外とそんな風に簡単に行なわれるものだ。
 もう一度、赤いギターを見る。今、脳に到達するまでに、どのくらい時間がかかっただろうか。
「もしかして、後悔しているの?」
「いいや、全然」
 断言してみたものの、本当のところはどうなのだろう。ひどくふわふわとした、曖昧な感情はある。この正体は分からない。でも、多分、この道で正解だったのだ。そう思う感情は防衛本能だろうか。でも……
 冷たい外気が、部屋の中にするすると侵入してくる。
「今晩、一緒に食事でもしようか?」
 僕は思い切って声をかけた。彼女はちょっと眉を寄せて、それから首をすくめると、少しだけ微笑んだ。