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コラムコンテスト お題「街」(2002年)

個と群集のエスキス

 ミネルヴァの梟(ふくろう)が飛び立つ時刻。アザミは独り、廃ビルの螺旋階段に佇んでいた。真っ黒い摩天楼の群像に囲まれた、歓楽街の外れの廃ビルだ。空は四角く切り取られ、そこから覗く僅かな茜色に、彼女は溜め息を吐く。紫がかった雲が、時折、その四角い平面を右に、右に流れてゆく。無機質なエンジン音に雑じって、疲れ切った人の群れが渡る横断歩道の調子外れな音階が耳につく。
「美しい世界、ね」
 彼女の眼には、濡れたアスファルトも、ガラス張りの雑貨ビルも、みんな不要なる異物のように映る。とても冷たくて、固い塊り。遠くで、鴉のしゃがれた鳴き声が響いた。
 不意に傍らの彼女のケータイが、その静寂を引き破った。甲高い電子音。濁った和音。それが無理矢理に彼女を思考の渦から現実に引き戻す。
「誰?」
 アザミの低い声はすっとこの廃ビルに浸透し、すぐに闇に溶け込んでいった。
……アナタこそ誰ですか?
 若い男の声だ。
「アタシ? アタシは天使よ」
 アザミはケラケラと笑った。軽い沈黙。
……それは嘘です。
 男は断言した。
「どうして?」
……アナタは女性ですから。女性は天使になれません。
「ミルトンのようなことを仰るのね」
……ミルトン?
「ガブリエルは女だった。そう信じてはいけない?」
……神学者は認めませんよ。天使は中性です。
「やけに理屈っぽいのね」
 アザミは少し拗ねて見せた。
「ここにおいでよ。パライソに招待してあげるわ」
 そびえ立つ摩天楼の群れ。その合間から覗く黄昏の空を背に、彼女は思い切り甘えた声を出した。
「その代わり、一回三千円」
 受話器越しに、男が苦笑するのをが分かった。彼はやってくるだろう。それは確信に近かった。
 ポツポツと雨が降り出した。さっきまでの茜色の光線は、いつの間にか消えていた。通りを歩く人々が、慌てて雨宿り出来る場所を求め、移動していく。アザミは途中で傘を買わなければ、などとどうでもいいことを思った。

 螺旋階段を昇る男の軽やかな足音が響いた頃には、アザミは電車に揺られていた。不思議な昂揚感があり、妙に可笑しな気分だった。